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仲良きことは美しきかな。なんかじゃ到底言えない50年

昼休み、病室で夫と一緒に昼ごはんを食べる。

病院食のそれぞれのメニューを、
ちょこっとずつ、おすそ分けしてもらうのがマイブーム。
けっこう美味しいんだよね。
しかも、自分でつまむんじゃなくて、ひな鳥のように、夫に食べさせてもらうのがミソ。
どっちが病人だ?

という以前に、そういう、こっぱずかしい、むしろ変態的(?)行為も、
『仲良きことは美しきかな・・・』で済ませることができる(?)のが、
夫婦の醍醐味ですよね(?)。

ラブラブな恋人って、微笑ましくもちょっと煙たいとこもあるけど、
夫婦となると、現実の生臭い数々のことがらとも共に向き合わざるを得ませんから、
それでもなお、仲がいいってのは、わりあい、好意的に受け止められやすいもんね。
もちろん、人前ではラブラブっぽいことなんて、しませんし、
私たちもいつまでも仲がいいとは限りませんが。

なんていっても、ブログに書いてたら一緒か。

今日は、見た目が「冷奴」なものにお醤油をかけて、一口もらうと、これ・・・冷奴じゃない。
「うーん、高野豆腐でもないし卵豆腐でもないし、ちょっとデザートっぽい?
 でも、これ以外にお醤油をかけるべきものもないしねえ」
なんて、ふたりして首をひねる。

あとで夫がメニュー表を見たところによると、「豆乳かん」だったそうです。
ああ、そうだ、あれ、豆乳の味だったー!
しかし、お醤油が正解だったのかどうかは、謎。


さて、少々遅まきな話題ですが、
先日、天皇皇后両陛下がご結婚50周年を迎えられ、会見をされました。

天皇ご一家(かつての紀宮様、皇太子夫妻、秋篠宮夫妻を含む)が、
このように公式な会見をされたとき、
私は、必ずニュースサイトで、その要旨ではなく、会見の全文を読むことにしている。
好きなんです・・・・。

まあ事前に入念なチェックは入っているかもしれないし、
ブレーン(というのは失礼か? ご相談役?)みたいな人々の存在もあろうが、
そこらのお粗末な政治家さんなんかより、よっぽど「自分の言葉」で語られているなぁ、
と感じることが多く、特に天皇皇后両陛下の会見は、
いつのときでも美しくも平易な言葉でわかりやすく述べられ、
しかも奥深く示唆に富んだもので、感銘を受けてばかりだ。

このブログに行きついた人たちとも、ぜひこの感動をわかちあうべく、
全文掲載したいところだが、さすがに不敬に過ぎるかな?
というより、かなりのボリュームがあるので抜粋させていただきます。
不敬問題では五十歩百歩ですね。


今回の感じどころ、まずひとつめは、
ご結婚50周年の会見ですから、おふたりが、お互いについて思われていることについて。

(問)結婚50年にあたって

天皇陛下:
「皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、
 また、私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、
 私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。」

と、これはまあ、型どおりといえばいえる総括なのだが、このあとには、
若くして未亡人になられた天皇陛下の姉君とも家族として心から仲良くしてくれた、
などのエピソードが語られ、

天皇陛下:
「私ども2人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、
 皇后の立場を十分に思いやることができず、
 加えて、大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います。
 しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また、天皇として
 務めを果たしていく上に、大きな支えとなってくれました。」

と、皇后陛下の具体的なご苦労についても、ねぎらいの言葉を述べられている。
今の陛下は、「天皇=現人神」時代が子ども時代なので、幼いときからご両親とは離れ、
侍従とか乳母さん?みたいな方々にご養育されたんだよね。

さて、皇后陛下:
「50年前、普通の家庭から皇室という新しい環境に入りました時、
 不安と心細さで心がいっぱいでございました。
 今日こうして陛下のおそばで金婚の日を迎えられることを、本当に夢のように思います。」

そう、わたし世代にはむしろ通常のこととして受け止めている「民間からのお妃誕生」は、
美智子妃殿下が初めてだったのだ。
実際の生活の中でも、習慣の違いや皇族の方々とのご関係で、大変な苦労をされたというし、
マスコミにいろいろなことをはやし立てられたりするストレスで、
若い頃には失声症?のような症状で割と長い期間ご療養されたりしたとも聞く。

「夢のように思います」という言葉には、そのような、50年間に対しての、
言葉にならない万感の思い、みたいなものを感じて、
でも同時に、ご夫婦で歩んできたこの50年間は、きっと幸せだったのではないかな、
とも思える、本当に深い深い表現だと思います。


(問)銀婚式に際しての会見では、
   陛下は皇后さまに「努力賞」、皇后さまは陛下に「感謝状」を
   それぞれ差し上げたい、と言われたが、この金婚式は?

天皇陛下:
「結婚50年にあたって贈るとすれば「感謝状」です。
 皇后は「この度も努力賞がいい」としきりに言うのですが、
 これは今日まで続けてきた努力をよみしての感謝状です。
 本当に50年間よく努力を続けてくれました。
 その間にはたくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。」

皇后陛下:
「このたびも私はやはり「感謝状」を、
 何かこれだけでは足りないような気持ちが致しますが、
 心を込めて「感謝状」をお贈り申し上げます。」


(問)50年の歩みのなかで、心に残っていることなどを。

天皇陛下:
「皇后はまじめなのですが、おもしろく楽しい面を持っており、
 私どもの生活にいつも笑いがあったことを思い出します。
 また皇后が木や花が好きなことから、
 早朝に一緒に皇居の中を散歩するのも楽しいものです。
 私は木は好きでしたが、結婚後、花に関心を持つようになりました。」

皇后陛下:
「このようなお答えでよろしいのか……。
 嫁いで1、2年のころ、散策にお誘いいただきました。
 赤坂のお庭はクモの巣が多く、陛下は道々クモの巣を払うための、
 確か寒竹だったか、葉の付いた、細い竹を2本切っておいでになると、
 その2本を並べてお比べになり、一方の竹を少し短く切って、渡してくださいました。
 ご自分のよりも軽く、少しでも持ちやすいようにと思ってくださったのでしょう。
 今でもその時のことを思い出すと、胸が温かくなります。」

なんて慎ましく、かわいらしく、お互いを思いやり、真心のこもった回答でしょう!
読んでる私のほうが、目から汗を出しそうです。

この会見が報道された翌日、糸井重里がHP上で、

「あの結婚は自分がまだ子どもの頃で、
 成婚パレードやなんかを見るために、テレビがバカ売れしたのはいうまでもなく、
 おふたりのブロマイド(?)もたくさんの人たちが買っていた。
 ふつうの家庭のお茶の間に、皇太子夫妻(当時)の写真が飾られている、
 なんてことが、当時はふつうにあったんだよ。

 それにしてもさぁ、この年齢で、こんなに仲の良さそうな夫婦って、
 あんまりいなくない?
 なんか、真剣に、感心してしまったんですよね。」

というようなことを書いていたが
(既にこのログは消えているので、私の記憶をもとに書いてます)、
皇族だからとかなんとかって関係なく、
たくさんの人が、こういう素朴な感想をもったんじゃないかな。


そして、もうひとつの感じどころは、「現人神」から「象徴天皇」の時代へと
皇室の役割が変わり、また、世の中も当然、大きく移り変わる時代を過ごされてきたことに対する回答。

少し長いですが、
これは今回の会見のかなりキモな部分だと思うので、
ぜひ書きとめておきたいし、また、読んでもらえるとうれしいので、引用します。

(問)時代にふさわしい新たな皇室のありよう、
   一方で守ってこられた皇室の伝統について、
   またそれを次世代にどう引き継いでいかれるのか?

天皇陛下:
「象徴とは、どうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、
 その望ましいあり方を求めてこんにちに至っています。

 なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、
 日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、
 日本国憲法下の天皇のあり方の方が、
 天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。

 守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、
 私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。
 この中には新嘗祭(にいなめさい)のように古くから伝えられてきた
 伝統的祭祀(さいし)もありますが、
 田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。

 新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、
 田植えのように新しく始められた行事は、
 形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。
 従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。

 皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、
 先ほど、天皇のあり方として、
 その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、
 次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、
 個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。」

皇后陛下:
「陛下はご即位にあたり、これまでの皇室の伝統的行事、および祭祀とも、
 昭和天皇の御代(みよ)のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。
 また、皇室が、過去の伝統とともに現代を生きることの大切さを深く思われ、
 日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々とともに、
 今という時代に丁寧にかかわりつつ、一つの時代を築いてこられたように思います。

 伝統とともに生きるということは、時に大変なことでもありますが、
 伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、
 豊かになれているかということに、気づかされることがあります。
 
 一方で、型のみで残った伝統が、社会の進展を阻んだり、
 伝統という名のもとで、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、
 この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。」

本当にねえ、非常に意義深い回答だと思うんよね。
こういうのを抜粋なしに多くの人々が読めるってことは、
このネット社会の素晴らしさを感じるし、日本の民主主義も捨てたもんじゃないなって思うね。
そして、ただ読んで感心するだけじゃなくて、
読み手がわに、「こう思ってるけど、どう?」ていう、投げかける力も持った回答。

耳に心地よい、きれいな言葉で、上っ面をなぞっただけではないからね。
こういう回答は、普段から・・・ていうか、長年にわたって、
この方たちが、「伝統とは」「皇室とは」「現代にあっての天皇とは」ということを、
まじめに、不断の努力で考え、実践し続けてこられてないと、出てこない。

「皇室に生まれただけで、お金の心配もなく、人に頭を下げる労働もなく、
 国民が納めた税金で、裕福な生活を送れるだなんて、天皇って何様なのよ?!」
というステレオタイプな意見や、

「天皇? いてもいなくても、俺らの生活に何の関係もないし。興味ないけど?」
ていう、私たち以降の世代の大半を占めるんじゃないかって考えもある。

天皇制度の是非については、あまりにもデリケートになるし、
私自身、「こうあるべきだ。」なんて確固たる意見はもてないんだけど、
皇族方、特に今の両陛下に対しては、
私はどうしても、尊敬の意、みたいなのをもたずにいられないんだよね。

いかに食いつめることなんてありえないとはいえ、
その立場は、望んで得たものではなく、逃れられないものだ。
あの高齢にあっても、おふたりは分刻みのスケジュールで、
あまりにも多くの仕事や儀礼をこなしている。
ちょっと調べただけでも、心底びっくりして、心配になるぐらいの過酷なものだ。

そして、それを、死ぬまで逃れられない。
敬意にしろ好奇心にしろ敵意にしろ、
世間のあらゆる目からも逃れられない。

そういう立場に生まれついた皇族の方々、
また、成人してから、そんな異常な世界に飛び込んでいったお妃の方々って、
相当な孤独感や無力感、葛藤から逃れられないんじゃないかって思う。

「どうして、自分はこういう星のもとに生まれたのか?」
なんて、若い頃から常に考え続けるなんていう人生、そうそう、ないじゃないですか。
こういう例えは不適切かもしれないが、
障害を負った人たちや、食べるものに困る人たちなどと同じぐらいに、
私のような凡人には想像もつかない生き方をされているんだと思う。

その中で、別に自分が望んでいるわけでもない境遇について、
ああも真摯に受け止め、常に考え、しかも表現できるんだな。
と思うと、天皇うんぬんにかかわらず、人間としての生き方に胸打たれてしまう。

皇室という世界に限らず、
形式的になりかねない、形骸化されかねない、「伝統」というものについて、
確固たる信念をもって取り組み、
かつ、きっと感じてこられた部分もあるだろうマイナス面についても
しっかり表現して、次世代が柔軟な対応をしやすいよう考慮した回答は、
家庭でも会社でも地域社会でもおおいに学ぶべきところがあるんじゃないかな、って思った。

さらに、

皇后陛下:
「伝統には表に表れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、
 その二つがともに継承されていることも、
 片方だけで伝わってきていることもあると思います。
 
 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で活躍した日本の選手たちは、
 よろいも着ず、切腹したり、「ござる」とか言ってはおられなかったけれど、
 どの選手もやはりどこかサムライ的で美しい強さを持って戦っておりました。
 陛下のおっしゃるように、伝統の問題は、引き継ぐとともに、次世代に委ねていくものでしょう。
 私どもの時代の次、またその次の人たちが、
 それぞれの立場から、皇室の伝統にとどまらず、
 伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう、願っています。」

というWBCを例に引いた回答は、まさに時宜を得たもので、
また、控えめな表現ながらも皇后陛下のユーモアも感じられて微笑ましかったし、

天皇陛下:
「学士院賞や芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、
 皇后と共に関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。

 短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、
 私どもにとっても楽しいものになりました。」

などの回答も、
決して天皇制度という菊のカーテンに守られてきたのではなく、
常に新しいやり方を模索し、実行されてきたんだな、というのが感じられ、
本当に「夫婦二人三脚、そして周囲との協調」あっての50年だったんだな、と思って、
「はぁーーーー」っという深い感嘆のため息をついた私なのでした。

だいたい、50年間とあれば、山あり谷あり、どんなご夫婦にも
ひとかたならぬ歴史や思い出があるものだろうが、
そういうのを耳にする機会って、実際、ほとんどないし。

天皇皇后両陛下というのは、ひとまず置いたとしても、
夫婦50年、そして、人生のおおいなる先達の言葉として、感じ入っちゃうわけですよね。
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by emit9024 | 2009-04-15 00:15

まさに、大山鳴動して鼠一匹・・・

NHKドラマ『白洲次郎』の公式HPを見ると、プロデューサーの文章が非常に興味深かった。

白洲次郎・正子夫妻の娘、桂子さんにドラマ化のお願いをしたが、「ドラマにならないと思います」と最初はずいぶん難色を示されたらしい。正子には古美術や伝統芸能についての著書が多くあるものの、次郎については、近衛文麿のブレーン・吉田茂の側近として活躍したはずなのだが、いわゆる「黒子」的な仕事が多かったのか、一次資料がほとんど残っていない。生前、本人が重要書類など焼ききってしまったということもあるようだ。

ようやくOKをもらったものの、娘さんは「いわゆるホームドラマにはしないでください。」と言う。白洲一家というのは、お涙頂戴の愁嘆場や分かりやすい愛情表現ではなく、一人ひとりの人格を尊重した毅然とした個人主義、独特の距離感で結ばれていたというのだ。

そこで、今回のドラマでは、白洲次郎の「史実」「実像」を再現するのではなく、取材の中から魅力的な「虚像」を創造し、彼の息吹やダンディズムの一端を感じ取ってもらうことに腐心したらしい。そういえば、ドラマの最後に「この作品は、事実を元にしたフィクションです」という字幕が出ていた。

第2話のみしか見ていないけれど、私に言わせればこの試みは大成功!だったと思う。

たとえば。
前々回、このブログのエントリでも書いたけど、次郎と正子は、喧嘩したり、お互いの本心を打ち明けあったりするとき、なぜか英語で話す。実際にそうだったらしいが、ドラマを作るにあたって、その部分は英語でシナリオを書き、役者に覚えさせ喋らせ、テロップを用意して・・・まぁ日本語でやるより面倒ですよね。もちろん、見ているほうは「ハァ? なんでこの人ら、日本人同士で、しかも日本で、英語喋りようとや?」と違和感を覚えるし、疑問も持つわけです。

でも考えてみれば、あの夫妻の本質的な繋がりをあらわすために、選んだ演出なのだろうと思う。喜怒哀楽を過不足なく伝達しあえるほど流暢に英語を喋れるということ、それは、現代とはまったく意味が違う。次郎と正子は戦前にイギリス留学できるほど上流階級の育ちであり、外国の文化や考え方に強く影響されてアイデンティティーを形成した彼らは、戦争へと突き進む日本にあって、まるで異質な存在だったということだ。

そんな二人が共鳴しあったのは不思議じゃない。ふたりは結婚して、3人も子どもを授かるのだが、それでもなお、向いている方向はまるで違う。次郎は疎開しつつも常に政治の世界をうかがい、しかし思うようにいかない世情や現実に傷つく。正子はいわゆる当時の良妻賢母とも程遠い感覚で、自分をもてあましている。“夫婦だから一心同体”なんていうわけにはいかず、すれ違い、「伝えたい、でも伝えられない」みたいなもどかしいシーンや、正子が気持ちを爆発させるシーンで、ふたりは英語で会話するのだ。

誰にもわかってもらえない、ていう孤独感をそれぞれ抱えた個人と個人が、それでも何かによって結びつき求め合う、その「何か」が、次郎と正子の場合、「英語」、つまり英語を話せるぐらいに当時あまりにも異質なルーツだったってことなんだろう。あんなに違う世界に生きて、別別の方向へ眼差しを向けながらも、なぜ二人がずっと結びつき求め合っていたのか、それをあの英語のシーンの数々は象徴的に表現してたんじゃないかなーと思う。

それから。
40歳を過ぎた次郎に、徴兵の赤紙が来るのだが、知り合いの軍部のお偉いさん(?第2話しかみてないのでイマイチわからないんですが・・・)に頼みに行ってそれを握りつぶしてもらうという印象的なシーンがあった。

お偉いさん(高橋克実さんが演じてた)は、「お国のためにみんなが出兵していくのに、行きたくないだなんて、恥ずかしくないのか! 私はあんたを見くびっていた」と激しく次郎を糾弾するのだが、彼は毅然として、「私は、こんなくだらない戦争にちょっとも自分を差し出したくはない! 私の本分はそんなことではありません!」と言い放つ。しかし一方で、疎開して自給自足をめざす彼に農作業を教えてくれた農家の青年が、「お国のために立派に戦ってきます!」「息子よおめでとう!」と出征し、やがて南方の島で戦死して、遺骸もないまま葬儀が執り行われるというふたつのシーンに、次郎が立ち会うところも、このドラマでは描いている。

愛国主義に疑いをもつことを許されない当時の世の中で、権力に一歩も屈しない、このシーンの次郎はとてもかっこいい。しかし、それが可能だったのは、ある意味、彼が「上流階級」に属し、一説ぶちあげればそれが通じるくらいのツテやコネをもっていたからなのだ。それは果たして本当に正しく、また、称賛すべきことなのか? 見てる私たちは考えずにいられない。

確かに、伊勢谷さんも中谷さんもすばらしく美しく、カメラワークや映像の色彩も凄く凝ってて、見ててうっとりさせるんだけど、見終わったあと「なんかズンとくる・・・」という自分の感覚をちょっと分析してみたら、「次郎さんかっこいい!」「正子さん素敵!」「こんな人が今の日本にいれば・・・」なんて、簡単に割り切れるように作られてはいないことがすぐに分かる。個人のエゴや、また逆に、個人がいくら頑張ったってどうしようもないことを、両方、見せている。実際、テレビの世界でこんな作品ばっかりだったら疲れてしょうがないんだろうけど、でも、こういうドラマをテレビで見られることはすごく意義深いなって思った。ま、NHKなんで、厳密にいうと、お金払って見てるわけですけどね。


で、一気に話は飛ぶんだけど、最近、とあるブログでダウンタウンが売れっ子になるまでの軌跡みたいなのをまとめてる文章を読みました。

今でこそダウンタウンといえば大御所だし、M-1やらR-1でも関西芸人の面白さは折り紙つきみたいになってるけど、ダウンタウンが大阪のレギュラー番組をすべて終わらせて東京に進出してきた頃は、全然、様子が違ったらしい。単独で番組をもてるのは、桂三枝師匠(あと、さんまさんかな?)ぐらいだったんだって。「夢で逢えたら」だって、当時はウッチャンナンチャンのほうが断然、人気も知名度もあったそうです。

で、満を持して“ガキの使い”が始まるんですが、二人の漫才やフリートークは、東京のスタジオではなかなかウケない。スタッフにも怒られる日々が続く。しかしそこで、彼らは客席に歩み寄らなかった。シーンとする客に向かって、「君らこんなんウケんのやんね、俺らオモロいんやけど・・・」とか何とか言いつつ、松っちゃんのボケをいちいち浜ちゃんが丁寧に拾っていくという方針を採用したそうです。こうやって書くと、「ふーん、そりゃそうなんじゃない?」て感じですけど、これは非常に地道な革命だったそうですよ。なんか、ちっともうまく書けなくて悔しいッス(書きながらの晩酌でほろ酔いになってきた・・・)

その後の破竹の勢いは周知の事実。松ちゃんは、「世間のニーズに合わせて笑いを作ったらアカン。ニーズを自分らが作りださんと」と言ってるらしいです。


こんなにダラダラ書いて「尻切れトンボ」とはまさにこの日記のことですが、夫も飲み会から帰ってきたので無理やりまとめる。
つまり、「わかりやすいことが常にいいことなのか?」と書きたかったのだ。

わかりやすいことは、一見、その場では受け容れられやすい。でも、わかりきったことは新しいことを生み出さない。
たかがドラマ。たかがお笑い。日常のあまった時間にのんびりテレビ見てるだけの時間。
それでも、「エ?」て思ったあとに「ああ!」と頷くのは、リラックスとは違う快感を生み出す。

作る側・与える側。その逆に、受け取る側。テレビやなんかでは私は常に後者だけど、現実の仕事や人間関係では、前者のがわに立つことも多々あるよね。どっちの側に立つときにも、生み出す面白さのことを忘れずにいたいなーと思う。ああ、結局、小学生の作文みたいなまとめですーーー。


ところで昨日の日記に書いた、WBC韓国チームのヘルメットのシール、ハングル文字の「マグマグ」。
昨日の時点では、「がんばれ!」「やります!」みたいなメッセージ性を帯びたフレーズだと思い込んでいたけど、
よくよく考えると、あれは普通に、企業の広告ですよね・・・。「コカコーラ」とか、「富士フイルム」みたいな。
もしかして、あの、メーリングマガジンの「まぐまぐ」企業のことなんですかね?
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by emit9024 | 2009-03-10 23:21

エルサレム賞授賞式の春樹についてもう1件

まずは、件のスピーチ全文へのリンク。

・原文
・日本語訳(匿名さんによるものです)

日本の新聞社系のニュースサイトとかで全文掲載してるところ、なくないですかー?
ゆゆしきことだと思うんですが。
普段、天皇陛下の会見とか、小室てつやさんの裁判とかの記録も全掲載してるくせに!
私のサーフィンが下手なだけ?


全文を読むと、改めて巧みさに唸らされるし、
春樹の文体に馴染んだ者としては、大舞台にあっても親しみを感じるし、
同時に、「ほんっと、かなり突っ込んで喋ったな!」という思いも強くなります。

これだけの英語原稿を自分で書いて自分で喋るって、
さすが春樹だなーと思うけど、まあ、もともと、そういう人ですからね。
政治家さんなどと違ってこの人には当然スピーチライターなんていないし。
英米文学への深い造詣あっての、この人だし。
英文であってもまったく春樹らしさが損なわれないというか、
むしろだからこそ世界中の言語圏に読者がいるわけで。

遠い将来、春樹の全集みたいなのが発行されたりしたら、このスピーチもきっと収録されるんでしょうね。
これも立派な彼の「著作」だな。

衆目にさらされることを嫌うことで有名な彼が、
その著作の中にさえもなかなか見つけることの出来ない、
個人的・政治的(ともとれる)スタンスについて、このように世界中に注目される舞台で
ご本人がかなり明確に「喋って」るんだから、私ら読者にとっては不思議なもんです。


で、また「はてな」を始めとする熱いネット論壇も徘徊。

授賞式当日、速報(スピーチの抄訳)に接した際の感想は前のエントリの通りなんだけど、
いろんな人の意見を読むと、なるほど、と思うこともいろいろあったな。
みなさん、思考やロジック、文章がアカデミックというか、
私には難しくて一読では呑みこめないよー!てのもあったけど。


一般的に(とか書くけど、『一般的』の定義とかは詳細に吟味してませんよ、すみません)
あの講演は、おおむね好評を博したようです。
中川大臣の例の会見も同日に報じられたせいか、両者の印象を比較して、
「春樹さんは立派! よくぞ堂々と述べた! 日本人の誇り!」
というような意見も、多々見られました。
うん、無理もない。率直な感想だよね。同感です。


ただ、やっぱり読み過ごせないのは、
(以下、引用ともいえないほどに、どの意見もものすごく自己編集してます)

「あのスピーチが全世界に配信されたからといって、世界は何も変わらない」
というような意見だったりします。

そりゃまぁ当然そうだろ、あのスピーチで突然に世界平和が訪れたりしたら、
それこそ春樹は教祖様ってことになるでしょうが。
と、乱暴に考えれば考えられるところですが、そのように論じる理由として、

「あのスピーチがエルサレムのその場において聴衆に拍手された時点で、
 イスラエルの『寛容さ』が際立つという予定調和に終わっている」

と挙げられたら、考えさせられざるを得ません。
つまり、イスラエル側は、こういった、自国を弾劾されるスピーチをも想定して、受賞者を選んだ、と。
それをも受け容れる「言論の自由」をもってるんですよ我々は、と。
そういう文明国なんですよ、と。
あの国があれだけおおぜいを虐殺をしておきながら、そう主張する手だてのひとつが、この賞なのだ。
確かにそういわれると、深い無力感に打ちひしがれます。

(エルサレム賞の審査員(?)がどこまで政治と関わっているかは不勉強にして知らないけど、
 授賞式にイスラエルの大統領やエルサレム市長が出席し、賞状(?)を手渡してたのは事実。)

しかし、「賞を授けますよ」と公的に表明された立場である春樹さんとしては、

・受賞拒否して、沈黙する
・受賞拒否して、イスラエル弾劾(とも解釈できる)意見を表明する
・受賞して、何も言わない
・受賞して、受賞式の場でイスラエル弾劾(とも解釈できる)スピーチをする

大まかに言うとこれくらいの選択肢しかないわけで、
その中で最後者を選んだ春樹には当然、思うところがあったのだろう。
まあ、それがノーベル賞に対する布石とか、もっというと野心とか、
穿った見方はいくらでもできるとしても、
そういうのをひっくるめても、彼の「信念」が表出したのが、今回だと思う。

スピーチでも、「多くの人に反対されながら、なぜ私がここに来たか。」
ってことについて、言を割いてましたよね。


私たちは、彼の、誰かの、思うところを想像したり、
彼の言動に対して自由な感想を述べたりすることができる。

だけどもちろん、本件に興味すらない人だってたくさんいるし、
(それどころじゃない、っていうガザ地区で命の危険に晒されてる人たちも含めて)
春樹の本を読んだことないけどニュースで見ただけ人たち、
あるいは春樹を好きすぎる(?)人たちもいる。
その中には、「春樹すげーよ! おめでとう! かっこいー!」
で終わる人たちだってたくさんいる。

そういうのに対する、ネット上の意見(例によって自己編集済みですよ)。

「このスピーチにカタルシスを感じ、春樹を素晴らしいと評じ、
 しかしそこで思考停止して、3日も経てば忘れてしまう。
 それが一番、警戒すべきことだ。
 あのスピーチから、すべての人が自分の『実践』を始めるべきなのだ。」

うん。そう。そうだよね。ほんとにそうだ。
これ聞いて、感動して、ハイおしまい、じゃいけないんだ、って思う。

ただし、ネット論壇でも当然、指摘されているように、

「じゃあ実践って何?
 イスラエルを糾弾したって、マイクロソフトとかインテルとか入ってるパソコンで
 ブログ書いたりすること自体(わたし註:いわゆる『ユダヤ・ロビー』とかの話ですよね?)
 イスラエルに加担してるといえなくもないんだよ?」
とかって問題提起されると、もう、がんじがらめになって動けませんけど・・・


“壊れやすい卵”という我々ひとりひとり、イコール個人に対するものとして、
“高くて堅すぎる壁”イコール体制あるいはシステムというものを挙げ、
いつだって卵の側につくと言い切った春樹すら、
結局は、“壁”の中で、彼自身が“卵”として脆弱な発言をしたにすぎないのかもしれない。
この世にある限り、壁つまりシステム、制度から逃れること、
その一切とかかわりのないところで生きてくことはできないんだろう。

だけど“壁”を壊すのは生半可なことじゃないんだもんね。
壁の中で声を上げる、ていうのが、卵にできる最大のことかもしれない。
でも、それがなければ始まらない。


30年も前は、春樹も星の数ほどいる新人作家のひとりで、そのころには、
30年経ってこんなに大きな意味を求められる立場になるとは思いもよらなかっただろう。
彼の小説家人生は、その著作のセールスや影響力とは裏腹に、
地道で実直で、マスコミとは無縁の世界をできるだけ選んできたものだと思う。
それが、いつのまにかこんなところまで来て、今、あの場でああいったスピーチを行った。

彼を真摯な人間だと思うし、今回のことは、ほかのいろんな人の意見を読むこととともに、
私にとっては、ある意味、人生観を揺るがすような大きな出来事だった。
読む人にとっては、なんの論理性も感じられない、あるいはつぎはぎの記事かもしれないけど、
自分のその記憶のために、これからのために、ここにも記しておきたいと思います。


参考エントリ

下記以外にも、これらのトラックバック等を辿っていろいろ読みました。
例によって、直接のコメント欄やブックマークコメントにも注目。

・モジモジ君の日記。みたいな
村上春樹、エルサレム賞授賞式でイスラエルを批判
「村上春樹」を巡る政治

・関内関外日記
よくやったじゃねえか、村上春樹、よくやったぜお前!そして打順は巡ってくるんだぜ、俺、世界!
村上春樹の件について、なんかどうも手放しでよろこべない理由を考えてみたんだ

・planet カラダン
洋上のスピーチタイム

・琥珀色の戯言
「わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」

・過ぎ去ろうとしない過去
「永遠の嘘」を構成する者


追記
春樹さんも今や、60歳か。映像を見ると、大ファンとかではない私ですら、
さすがに年を経られた様子に感慨を覚える。
でも、きゅんとくる。お元気そうでとても嬉しい。
海辺のカフカもねじまき鳥クロニクルもアンダーグラウンドも読んでないしこれからも読まないかもしれないけど、やっぱり、なんだかんだで春樹さん好きだー、って立脚点で、書いてることは間違いないっす。
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by emit9024 | 2009-02-18 21:35

春樹、エルサレムで講演す

朝の時点では『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦 角川文庫)についての感想を昨日に続いて追記しようかと思っていたんだけど、やっぱり今日はこれについて書いとかなきゃって気持ちの私です。

『村上春樹 エルサレム賞授賞式で記念講演』
(以下は産経新聞ニュースサイトの抄訳です)


一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。


全文を掲載しているwebはまだないみたいですね。
彼が実際に発した英語のスピーチをもうちょっと詳しく引いてるサイトがあって、
それを読んだ感じでは、この抄訳よりももっと「村上春樹」らしかった。
いかにもスマートでナイーブで、小憎らしいほどクールかつシニカル。
もちろん同時に、隠喩は示唆に富み、単語のひとつひとつ、文章の連なり、
声に出して読んだ感じの響きにいたるまで、目配りし尽くしてるな、と感じた。

(とはいっても、私の英文読解力といったら、
 今や大学生よりさらに落ちるくらいのレベルだろうけどね・・・)

イスラエルの文学賞であればなおさら、
記録どころか後世に残る歴史としてすら残るスピーチになってもおかしくないものだろうから、
言葉を操るのを業とする作家としてこの賞を受けた以上、
(春樹は、意見を表明するにあたって、
 『I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies』なんて言いまわしで始めてますね)
よくよく推敲された全文であることは疑いもない。

しかし、ネットやテレビ・新聞は言うに及ばず、人々の口の端にのぼる場合でも、
抄訳よりもさらに短い「抜き出された」フレーズが
独り歩きすることをも十二分に見越した、周到なスピーチだと思う。

 「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵。
  自分は常に卵のがわに立つ。壁のがわに立つ小説家に、何の意味があろうか?」

うーん、うまいね。さすが春樹。
や、ナナメに構えて言ってるわけじゃないんだよ。

私がこれまでに読んだ春樹の著作群。
『風の歌を聴け』
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『やがて悲しき外国語』
『辺境・近境』『遠い太鼓』『シドニー!』
『走ることについて語るときに僕の語ること』
あとは、村上朝日堂シリーズを始めとする、お気楽な(?)エッセイなど。
決して多くない。海辺のカフカもねじまき鳥クロニクルも、アンダーグラウンドも読んでない。

そんなつまみ食いの私にとっても、
このスピーチ(の抄訳)における彼の立脚点は、彼に対する印象をまったく修正させなかった。
いかにも春樹さんらしいなー、と思った。
というかむしろ正直なところ、抄訳を読んだとき、ぐっと熱い気持ちがこみあげたもん。

いわんや、真性のハルキストたち(揶揄じゃないよ)はさぞかし感激し、
デタッチメントに始まった彼の文学をここまで追い続けて来た人などは、
「春樹、ここまで言うようになったか・・・・」ていう感慨に堪えなかったりするんだろう。

一方で、
「“あの”村上春樹がここまで踏み込んだ発言をするとは」
と驚きをもって受け止める人々も少なくないだろうし、
このスピーチで初めて彼の言葉に触れた人々は、
「なんか骨のある奴じゃないの」
という印象をもったりするんだろう。

なんか、ほんとに、つくづくねー、さすが、春樹ともなると違うね!て感じるんだけども。

でも、どこの誰にどんな受け止められ方をされようとも、春樹さん自身は
「これは欺瞞じゃない、僕の、真摯な、真実の言葉だ」
って胸を張って(彼は胸を張ったりしなさそうだが)言えるんだろうな、
って思える。思わせる。

だからこそ、このスピーチの価値、この受賞の価値というのは間違いなくあって、
それは春樹自身の輝かしいキャリアのひとつになるのかもしれないけど、
世界じゅうにとって意味のあることなんじゃないかな、って思った。
おのれの栄光のためだけに、このスピーチをしたわけじゃないんだろうと思う、春樹さんは。

「We must not let the system control us - create who we are.
 It is we who created the system.」

あ、そうだ、you tubeなんか見たら、動画がupされてたりするんかな。
春樹の講演なんて見られるの、そもそもレアだよね。
どーせ英語だから聞いたそばから理解できるなんてこたぁないけど、
日本語でスピーチしたなんて、(芥川賞受賞以来?)ついぞ耳にしたこともないし、
これからも日本では絶対しそうにないからなー。
あー私、野次馬感覚も、結局、否めないなー。
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by emit9024 | 2009-02-16 21:45

村上春樹なる存在

とにもかくにも今週の仕事にケリをつけた。
まだまだ未熟ではあっても、今の私のベストを尽くしたといえる一週間だと思うし、
たとえ2日間だけであっても、とりあえず会社から解放されるってだけでかなり嬉しい。

自営業の父親を長年見ているので、
結局は責任が限定されている(少なくともわたし程度の)会社員って、ラクだと思う。

とはいえ、今日は、「雇われの身ゆえの危うさ」みたいなものも
社内で激しく発露されたので、かなり複雑な気持ちになったのだが。
これについては書きたいことが山とあるけど、自重しよう。


ところで、今週、仕事のほかに私を静かに熱狂させたのは、
村上春樹が「エルサレム賞」なる文学賞を受賞することに関する、
ネット上でのさまざまな人たちの反応だった。
目からウロコが落ちるような発見が多々あり、本当に勉強になったし、
刺激も受けたし、さまざまなことを考えさせられた。

村上春樹の著作、15冊以上は持ってるかな。
そのほとんどが、エッセイだ。

小説もいくつか読んだ。大学時代から20代前半にかけて。
読み始めると続きが気になり、速いスピードでどんどん読むのだが、何作か読んだあと、
「今の私には春樹の作品は合わないな。もうちょっと若い頃なら、
 逆に信奉するぐらい夢中になったかもしれないけど。」
と思って、それ以上、彼の小説に手を出すのをやめた。

彼の小説の主人公というのは
「個人的すぎるっていうか、独善的っていうか、自意識が強すぎるっていうか・・・。
 他者との自然なつながりを拒否し、社会を拒否し、生活感を拒否し、
 なのに妙に美味しいセックスに受動的にありついたりするのって・・・・。
 それに加えて、そのことに対しての劣等感や羞恥心がなく、むしろ傲慢な・・・。」
ていう印象があって、どうしても感情移入できないし、
それどころかそういうものを完璧なまでの世界観で書いていることに対して、
違和感・嫌悪感が拭えなかった。

甚だしく繊細で、比喩を多用し、
いかにも英文が透けて見えるような文体も、
それが途方もなく上手だからこそ、逆に、妙に鼻についた。

たくさんの春樹ファンの方々、
言うまでもないけど、これはあくまで個人的感想ですからお気を悪くしないでね。

10代後半から20代前半の私は、
「現実を受け入れて折り合いをつけ、ささやかでも、地に足つけて生活する。
 そういう自分を肯定する。」
ということに対して、けっこう必死だったのです。
超然とした態度の春樹作品の主人公というのは、その頃の私には対極だったのだ。

それで春樹の小説からは遠ざかったのだが、
しばらく経って、ふと、彼のエッセイを読んだら、これがすごく面白い。
たちまち、購入・購読を重ねた。

彼のエッセイ、とても抑制が効いてて、軽妙でユーモアがある。
英米文学、ジャズやクラシック、ロックに対する深い造詣とマニアックさ。
no run,no lifeみたいな年季の入った態度にも、すごく親近感を覚えた。
「辺境・近境」や「シドニー!」みたいなルポタージュにも、
その文章力、表現力に唸らされ、何度も再読したし、
「シドニー!」についてはブログに詳しく書いたこともある。


それで村上春樹という作家・文章家の優れた面はじゅうぶんに知っているつもりだったのだが、
今回のエルサレム賞受賞の件ですよ。

いやはや、すごい反響。
特に、良くも悪くも論客ぞろいの「はてなダイアリー」は
凄まじいといえるほどの様相を呈しています。
実に、良くも悪くも(?)はてな論壇のパワーを思い知ったよ。

それらのエントリについては最後尾にまとめてリンクしようと思いますので、
興味のある人はご覧ください。


エルサレム賞というのは、当然、「あの」イスラエルのエルサレムにて授与される文学賞です。

イスラエルの歴史については最低限の常識程度の知識しかない私。
今もまさに毎日のようにガザ地区についてニュースになっていますが、
この春樹関係のエントリを読んで、最近では初めて、主体的に情報を得ようという姿勢になった。

「イスラエルにおける戦争を支持・支援しているアメリカと同盟を結んでいるという時点で、
 日本人として消費・納税活動を行うこと自体、間接的に戦争の共犯者」
という意見は、極論だとしても妄言だと切って捨てることはできず、ガツンとやられました。
中東情勢に対して明らかに興味の薄かった自分の平和ボケ加減に衝撃。

そもそも、今回の春樹の受賞に対して、
「現在もパレスチナ人を虐殺し続けているイスラエルが与える賞を受けるとは何たることか。
 賞は辞退することも可能なのに。」
という意見がある。

このエルサレム賞に関しては、過去に受賞したスーザン・ソンダクという、
人権擁護運動も盛んに行う女流作家(この人のことすら、知らなかったよ)が、
エルサレム市長を始めとする面々が居並ぶ授賞式において、
イスラエル軍の武力行使を激しく非難し、弾劾するスピーチを行ったらしい。

その例を引いて、
「受賞スピーチにおいて、ソンダクのように、イスラエルの暴力性を批判する」
という手段でもって、有名作家としての責任(?)を果たすべき、だという意見もある。

春樹ファン(いわゆる「ハルキスト」)には、

「日本の読者もイスラエルの読者も、読者としては同じなのだから、
 どこの国の賞であっても差別区別するのは、いかがなものか。
 作家というのは、たとえば受賞スピーチという手段をもって
 政治的行動をとらないからと言って、非難すべきものではないし、
 春樹をそういう政治的道具として扱って欲しくない。
 そもそも、春樹の文学は、政治からはもっとも遠いニュアンスのもので、
 彼のような作家は、直接的な言動ではなく、これまでどおり、
 「作品」によってメッセージを発するべきで、それによって感想も語られるべき」

のような反論も見られる。
私としても、この意見は、同意するしないではなく、素直に読んだ。
春樹のファンが、このような意見を述べることは、ごく自然だと思えたし、
一般的な現代日本人の本読みとしても、違和感はなかった。

しかし。

「賞を与える、受ける、という時点で、既に両者ともに政治的な行為」

「政治的なものから文学を隔離しようとすること自体が、
 積極的政治性とは違った意味であるだけで、『政治性』を帯びることに変わりはない。
 むしろその「無自覚さ」こそが、現代日本の特徴でもあり、問題でもある」

等々の意見には、文学と政治(的なもの)のかかわりを認識したことすらなかった私としても、
はっとさせられるところがあり、

「この受賞が『村上春樹』であるからこそ、このように喧々諤々となるのだろう」

「戦後のベビーブーマーとして生まれ、高度成長経済期に育ち、
 学生運動の時代(しかもそのとき、春樹は早稲田大学文学部の学生だった!)を経験し、
 なおかつ、一般的な会社就職を選ばず、ジャズ喫茶経営というマイノリティの道を選び、
 さらにその10年後、あのような(『風の歌を聴け』)作品でデビューした村上春樹が、
 政治性と無縁だといえるほうがおかしい。」

などの意見を読むにいたっては、首肯せざるを得なかった。

なおかつ、

「春樹という作家は、政治的バランスを保つのが天才的に上手。
 自らの文学の政治性を俎上に上げずに、こんなにも現代において評価されてきたのだから。
 今回の受賞にしても、スピーチをするにしてもしないにしても、
 政治性を帯びず、物議もかもさず、しかし彼の流儀で『うまく』やるだろう」

というような意見は、2月15日の授賞式において恐らく証明されるのではないか、と見た。

っていうか、
彼がスピーチをしようがしまいが、した場合にどういう内容であるかに関わらず、
その行動について、私も何かしらの「意味」を(勝手に)解釈するひとりになるだろう。
そして春樹は、そんな読者や視聴者、世界中の人々のこともじゅうぶんに想定したうえで、
その日の行動をとるのだろう、と確信してしまった。


ともかくも、村上春樹なる存在が、いかに限定的とはいえ、
かくも影響力のある大家であるかということを、
今週、ふつふつと感じて驚嘆した私です。

しかも、教祖とか現状のオバマのように、熱狂的に支持されるのではなく、
それぞれの立場、同じ春樹ファンにしても異なる意見を表明される対象であるってことが、
逆にすごい存在だなーと思った。
これだけの論議をかもすだけで、小説家の価値というのを感じるし、
そういう小説家って、日本には春樹しかいないな、ってのも改めて思った。
(大江健三郎は、『小説家』というより、やっぱり『作家』って感じがする。
 作家のほうが、より、政治的ってニュアンスで。
 それがいいとか悪いとか論じたいわけではなく。)

それで、何年かぶりに、
「春樹の小説を、また読んでみようかな?」と思った私です。
あらー、結局、これこそが彼の思うツボなのかしら。
私のよう態度の読者が、その結果、彼の作品に対してどんな感想をもつとしても、
印税が入るという経済的価値のほかに、
彼の「政治的といえなくもない」小説家としての意義、
に、ひと味、加えることになるのかも。

そして、ほんとに真面目な厳粛な気持ちで書きますが、
ガザ地区で、自分の想像を超えるくらいに簡単にどんどん人が死んでいる、
ってことも認識したし、それについて無関心といえるほどであった自分の無知の罪も恥じた。


参考エントリ

『琥珀色の戯言』
村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと
村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞について・付記

『モジモジ君の日記。みたいな』
村上春樹、エルサレム賞受賞おめでとう!!!
2009年2月にエルサレム賞を授与される、ということ
村上春樹を読まずに批判してるって?

『無造作な雲』
村上春樹氏 エルサレム賞受賞
村上春樹氏 エルサレム賞受賞-補
村上春樹氏 エルサレム賞受賞-蛇足
村上春樹氏 エルサレム賞受賞-村上春樹という問題

『ビジネスから1000000光年』
個別論と一般論、具体論と抽象論のすれ違い、問題のレイヤーの違いについて

『玄倉川の岸辺』
村上春樹とエルサレム賞(あるいは人間の三つのタイプについて)


などなど、
各エントリのトラックバックも参照。
記事に対しての直接コメントや、はてなブックマークコメントにも秀逸なもの多々あり。
ブックマーク機能の有用性・興味深さにも、今回、遅まきながら気づきました。
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by emit9024 | 2009-01-31 00:26

お尻もどっきりする寒さ

繁忙期には更衣室の最終使用者になることがしょっちゅうで、
エアコンが消されてから久しいと極寒の中で着替えることになる。

それに加えて、この時期、油断大敵なのがトイレ問題。

便座が人肌を感じずに(なんか嫌ですね)一定時間経つと、
省エネのため自動的に温めるのをやめてしまうらしく、
何気なく便座に腰掛けると、飛び上がるほどお尻が冷たいの。

これも繁忙期には日常茶飯事なんだから、いいかげんに学習すればいいんだけど、
夜も9時とか10時とかになってくると頭が飽和状態で注意力散漫も甚だしく、
何度も罠に引っかかってしまうわたくし。


帰宅したらちょうどビストロスマップのゲストにつまぶきくんが。
なんて爽やかなんでしょうねー。
いかにも芸能人っぽいトークではなく、
媚とかウケ狙いではない自然な明るさとユーモアのある年相応の青年、って感じで、
俳優やめたって、営業マンなんかに転身したら、老若男女問わず好感をもたれて、
余裕で成功するんじゃないかと思える話しっぷりには感嘆です。


エキサイトブログには簡易アクセス解析機能がついていて、
それを見ると今日のこのページのユニークアクセスが軽く普段の倍以上を記録してるんですけど、
な、なんかありました・・・・?
単に、昨夜の更新が、数日ぶりだったからってことなんだろうか?

私の日記はワード検索なんかで読まれてるのは1日わずかな数のようで、
そのわりには毎日一定のアクセスがあるのです。

時事問題や流行りすたりについてはめっきり疎い、
ごくごく個人的なことばかり垂れ流してるこの日記を、
一体どんな方々が読んでくれてるのかな?
ってことは、簡易解析機能ではわかんないし、
それ以上の手段を講じるほどの数でもないんですけど、
ときどき、この画面の向こう側にいる方たちに興味が湧いたりもします。
定期的に読んでくれてる方々、いつもありがとうございます。
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by emit9024 | 2009-01-26 22:58

寒気到来とくりゃ冬ごもり。

今週は、なぜかよく飲んだー。
毎日まいにち残業しながら、毎日まいにち夜も遅うからよく飲んだ。
それでいて、翌朝は翌朝でけっこうシャッキリしてたのが、また不思議。
ま、タクシー通勤という名の伝家の宝刀も抜いたけどね・・・。

そして週末はよく寝た。ほんっとうによく寝た。
降雪予報が出ていたので、ハナっから「今週末は引きこもり。」と意気込んで、
週末ロードショーを家で催すべく、金曜の帰りがけにDVDも借りて帰った。
今どきのレンタル屋さんって遅くまでやってるからいいですよね。

見たのは、「うた魂♪」2007年公開、夏帆ちゃん主演の青春映画です。
夏帆ちゃんといえば、「天然コケッコー」で類稀なる田舎の美少女っぷりを
そりゃもう甘酸っぱく撮られていたのが印象的でしたから、
今作に対しても、いやがおうにも期待が高まるところだったのですが・・・。
や、夏帆ちゃんは自然な表情やせりふまわしが大層愛らしかったんだけど、
うーん、なんというか、前作とは作り手側の差が出たって感じでした。
なんせ敵役の女の子の人物造形、その子の台詞(せりふまわしじゃなく、せりふそのもの)が
あまりに類型的で、大人が見るには結構つらかったのよね。
とにかく最初の30分ぐらいは、演出といい脚本といい、滑りまくっていて
「こりゃどうなることか・・・」てハラハラしたぐらいなんだけど、
幸いにもこの映画、実年齢30代であるゴリを高校生に起用したこと・・・もさることながら、
メイン素材である高校生合唱のシーンは全般的に成功してて、
彼が部長を務める「湯の川学院合唱部」が「15の夜」を熱唱するあたりからは面白く見れました。

と、なんちゃって評論家エミさんの言いたい放題でした。

しかしそれにしても夏帆ちゃんには今後もいい作品に恵まれて欲しいね。
あの子の笑顔は本当に自然で、笑ってくれると見てるこっちがほわっと幸せな気持ちになるのよね。
そういえば、お天気お姉さんの皆藤愛子ちゃんもそういうタイプかも。

さて、日曜日は雪もひと段落ついたころを見計らって走りました。
58分、10キロにはちょっと届かないぐらいかな。
ペースを落として15キロぐらいまで走ってみたかったのだが、
途中から細かい雨が降りしきって体が冷え切ってきたので終了。
でも今日は気持ちいいランだった。

それにしても、今日が大阪国際女子マラソンだということをうっかり失念していたのは、
不覚としかいいようがない!
渋井さんの復活Vまでの道のり、
増田さんに有森さん、Qちゃんという英傑たちがそろっての解説、
ああ、見たかった・・・!
なんにも気づかず「動物のお医者さん」の再読なんかに励んでました。

『天地人』第4回。
先週、戦の壮行会と称してさんざ飲み騒ぎ、
最後になんとなく勇ましく出陣していった上杉の一行は、
カメラのまわってないところで、さっさと合戦を終えたらしく、
今週の始まりはまた戦勝祝いの酒宴だった・・・。
なんか、やたらと飲んではバカ騒ぎしている上杉の家中というのに
どうにも馴染めないんですけど、
(しかも、居酒屋で飲み会やってるみたいなノリだし・・・)
(閉ざされた雪国でしみったれた顔突き合わせてた一昨年の大河のイメージもあるし・・・)
これも謙信存命時代ゆえの泰平さを表現しているものだと解釈して乗り切っています(?)

いま、「情熱大陸」で長瀬智也を見た。
彼の来し方を紹介するVTRは「池袋ウェストゲートパーク」と「タイガー&ドラゴン」で、
「歌姫」は、あたりまえのようにスルーされていた・・・。
あれこそTBSでの彼の最新主演作で、熱演だったのにぃ。
視聴率ってコワイよ。
それにしても、ジャニーズって何となくチャラいイメージがつきまとうけども、
衆目の中で歌わされたりドラマやらされたりグラビア撮影されたりバラエティやらされたり、
っていう、もちろん自分で仕事なんて選べない殺人的なスケジュールをこなしながら
自我を保ちつつ大人になってるだけでも、
一般の同じ年頃の人間よりも、よっぽど必死で生きてるんじゃないかな、
って思えたりもする。
堂本つよしくんなんて未だに屈折した少年みたいな印象があるけど、
それも道理かもな。
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by emit9024 | 2009-01-25 22:54

「痢」を忘れなかったのは、むしろ、なぜ。

もうすっかり喉元過ぎて、
「あれは一体なんだったの? ポカーン」 てな具合に口開けてますが。

●医療問題の深刻さを垣間見た。

ウイルス性胃腸炎の症状、真っただ中で病院まで出向くこと、
そして待合室でまんじりもせず時を過ごすというのは、
元気なときとは比べるべくもない労力だ。
それでも私なんて、まだ若いし基礎体力もあるし(たぶん)、病院通いも一時的なもの。
でも、もっと重篤な状態だったり、お年寄りだったり、
まして病院がそうそう近くにない地域だったりしたら、これは難儀な話だ。

かといって、今後、状況が打開されることもかなり考えにくい。
お年寄りの数は増えるんだし、
ローカル的な過疎と過密の勢いが止まるってこともなさそうだし。

医者だって、いかに報酬が絶対的に高いとはいえ、
患者が増えて、責任問題を追及されることも昔に比べるとずいぶん増えたとくりゃ、
肉体的にも精神的にも、より激務になるだろうから、
なり手だってますます減るんじゃなかろうか。

とどめが医療費負担の増大。
やっぱり、貧乏人(私だって我が親だって、大分類ではこっちに入るだろう)は、
野に朽ちるしかないのか・・・。

●やはり夫は有事の際に頼りになる。が、しかし。

病院探し、病人向け食事の支度・片付け、
そして、体力消耗して心弱くなった人(私だ)を、
大げさに構わず適当に(このアバウトさが肝心)励ますことまで、
彼の実務能力にしっかり世話になった数日間だった。

具合の悪いときに頼れる人がいるというのは、
やはり心強く、また心温まるもので、本当に感謝している。
そうよ夫婦だもん、いいときも悪いときも一緒だもんね。

・・・といえば麗しくまとめられるわけではあるけれども、
こうやって、夫婦というのは、なまめかしさを失くしていくのでしょうね。
と、しみじみしたのでありました。
だって、嘔吐下痢の悶え苦しむときも一緒なんだもん。
セキララな間柄にもほどがあるってなもんです。

●自称漢字検定2級の実力は、ダテ?

病院に行くと、問診票というのを記入する必要があります。
当然、症状を書き込む欄があるわけで、
意気揚々と(って、そんな元気はどこにもなかったが)
「嘔吐下痢」と四字熟語(違)を書こうとして、はた、と筆が止まった。

・・・・・・・。

憮然としながら、『おう吐下痢』 って書いた私でした。
ショック!!!!!
次の機会(あったら嫌だけど)には絶対、間違わんけんねー!



さて、今夜も、夜ラン。
今日で3日目、こんなやる気は、いつものようにそのうち収束していくのだろうが、
まあマイブームが続く限りはやっておいて悪いことはあるまい。
走りたいがために、ついつい、無理くり早く退社する私である。
たまってる仕事は、いったい、いつ、誰がするんでしょーか?!
小人さーん、妖精さーん、私が寝てる間に姿を現しておくれ。

今日はなるべく脚や心肺を追い込みながら、
自宅周辺の5キロ周回コース(ジョギングシミュレータで計測済のコース)を走ります。
休憩挟んで2回。1回じゃないところがポイントね。
こーゆーのを、マラソン的には「ポイント練習」というそうです。
ジョグ→ポイント練習→ジョグ、というふうに繋ぐのが基本なのだそうです。

1周目、27分50秒。
2周目、28分05秒。

あり? おかしいな、2周目のほうが明らかに突っ込んで入ったのに・・・。
最後、脚が死んだな。
しかし、遅いな、俺・・・。

でも、3日続けて10キロ(以上)を走ったのは、初めてだった気がする。
筋肉痛もまったくなく、充実感ある3日間のランニングでした。
次に走るのはたぶん週末。
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by emit9024 | 2008-12-16 23:31

明日は賞与支給日

民衆に支持される政治家って、
いわゆる「演説力」というか、「言葉に力がある人」なんだろうなーと思う。
小泉純一郎、然り。
東国原知事、然り。
オバマ、然り。

それでいくと、漢字の読み間違いを頻発してる麻生さんて、
ほんと、不適格なんだろうなーと思う。
自称漢字検定2級の実力をもつ私としては
(いまや、読みはともかく「書き」は自信ないが・・・)
一国の首相が高校生レベルの漢字もたびたび読み間違うだなんて、なんてこと!
と、憂いては、います。

しかしだよ。
小泉純一郎が、国家の主権たる国民にとって、良い政治をしたとは、私には思えない。
政治の評価というのは、後世にならないとわからない点もあるだろうが。
でもヒトラーだって、国民の圧倒的支持を得て、ドイツに君臨したんだからね。
彼も演説の名人だった。

民衆の支持を得るには言葉の力は不可欠だけど、
その力をもってるからといって、素晴らしい政治家といえるかどうかは、
わかんない。
逆にいうと、言葉の力がなくても、素晴らしい政治家といえる人も、
いるかもしんない。
(まあそういう人は、総理大臣でなく、一般の(?)政治家にいればいいのである。
 て、いわれればそうかもしれないけど) 

こういうの、必要条件だっけ?十分条件っていうんだっけ?
対偶の関係とか、ありましたね。論理学に。
忘れましたが。

言葉の力がない政治家が首相であるのは、やっぱり罪なのかなあ。
マスコミの叩きようを見てると、どうも些細なことばっかりっていうか。
でもそうやってマスコミが叩けるのは、
民衆の支持を得ていないと確信してるからなのか。
それとも、ああやって瑣末事を叩くから、
支持率もどんどん落ちているのか。
その辺は、正直よくわかんないのですが、
マスコミは、もっと別の観点から、政治を報道して欲しいと思うのはおかしいのか?
民度って、どうやったら上がるもんなんだろう。私の「民度」も含めて。

給与または賞与の明細を見るたびに、
「はぁーこんだけ、お国(及び地方)に捧げてるのに・・・」
と嘆息しちゃうもんです。

別に批評家になりたいとかいう気持ちは全然ない、
ただ単純に、でも切実に、
(すごく漠然とした言い方だが)日本をもっと良い国にしたくて、
それには政治レベルの向上って不可欠だと思うんだけどねー。

考え始めれば、日本を良くするためには、世界を良くする必要もあるし
(その順番が逆だという人もいるだろうが・・・・)
まあ、簡単な問題じゃないのは当然なんだけどもさ。
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by emit9024 | 2008-12-09 21:14