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星をみあげる人

やっぱり落ち着いてもう一度書こうと思う。
大阪国際女子マラソンでの、福士加代子のこと。
5,000m、10,000mでは日本で向かうところ敵なし、「トラックの女王」の名を欲しいままにした彼女が、
北京五輪の出場を果たすべく、初めてのマラソンに挑んだのが、この間の日曜日の大会だった。
出だしから持ち前のスピードを存分に出して後続を引き離しての走りになったが、32キロ過ぎには力尽き、
体の制御を失って意識朦朧と何度も転びながら、19位、2時間41分あたりで何とか完走した。

その挑戦は「惨敗」と評された。
初マラソンのための準備期間が短く、じゅうぶんな距離練習を積んでいなかったことや、
明らかなペースダウンのあと、あの状態では選手生命を脅かす恐れすらあるのに、
監督が棄権させなかったことについて、批判も噴出した。
転びながらのあの最後のゴール前の様子で、「感動した」って涙を流した人も多かった反面、
「いかにも日本人好みの精神論」「非合理的」とも言われている。

そもそも、天衣無縫であっけらかんとした言動を繰り返す彼女のキャラクターを、
昔から、愛する人もたくさんいれば、「生意気」「かわいげがない」という人たちもいたのだ。
後者の人々にとっては、この敗戦は格好の批判の的になっている。

「マラソンはそんなに甘いもんじゃない」「なめてるのか?」「当然の報い」
ネット上でも、そういう意見をたくさん見たけれども。
でも、もしも(マラソンに「もしも」はない、というのも定番の意見だけれども)、彼女が勝っていれば、
「常識を覆した」「器が違う」って、マスコミだって、それこそ過剰なほどの喝采を浴びせ、彼女をもちあげたことだろう。
結果が出た後では、外野はいくらでも、なんとでもいえるのだ。

今回の挑戦、その練習方法も含めて、リスクが伴うことを誰よりもわかっていたのは、
福士加代子とその陣営だろう。
それでも賭けたのだ。
そこには、賭ける価値があると、本人たちが信じて、判断したからだ。

「準備不足でしたね」
福士のシンデレラストーリーを派手に演出して視聴率を稼ぎたいテレビ局が、これでもかってほどお膳立てをした番組の中で、
解説をしていた有森裕子だけが、その場で冷静に言った。
それは真実だろう。
それに、あのいわゆる「大本営発表」的な番組の中でそう言った彼女を、かっこいいとも思った。
私は、有森裕子にはそう言える権利があると思う。
なぜなら、彼女も競技者だったから。
福士加代子と同じように、
マスコミや一般の人たちの甚大な期待とプレッシャーを背負い、長い競技人生で、それと戦ってきた人だから。

私たちは、放送されるもの、報道されるもの、結果だけを見て、好きな感想を述べることができる。
でも、私は、あの日曜日の福士加代子を見て、安易にコケにする人間にはなりたくないと思った。
同時に、あのゴールを、「敗者の美学」のように語りたてる人間にもなりたくないと思った。

福士加代子は何のために、トラックから離れてフルマラソンを走ったのか?
それは、おそらく自分の可能性を信じたからだろう。挑戦したかったからだろう。
そしてその挑戦の理由には、周囲の期待に応えたいと思った、ということがあったのだという。

緻密な取材で知られる、やはり元マラソンランナーである増田明美さんが、解説で話していた。
「一流のアスリートになればなるほど、たくさんの人たちのサポートに支えられて競技をしている。
 そして一流のアスリートになればなるほど、その事実に感謝して、その想いに応えたいと思うものだ。
 福士さんは、ああいうキャラクターだから、
 マラソンを走る理由について、会見では『気が向いたから』なんて笑っていた。
 でも、本当はあの子は、いつも周りの人のことばっかり考えている子なんです。
 周りの人のために走りたい、という気持ちをもっていて、それが今回、マラソンに挑戦した理由だと私は思います」

私はそれが真実だと思う。

夏の大阪世界陸上で、福士加代子はトラックを走った。
5,000mだったか10,000mだったか、予選で上位に入って決勝進出を決めた直後のインタビューで、
インタビュアーに対して開口一番、「○○さんはどうでした?」と聞いた。
自分よりもうしろを走っていた日本人選手が、決勝に残れたかどうか、わからなかったからだ。
その日本人選手にも残っていてほしい、という気持ちにあふれた口調だった。
それも勝者の余裕、といってしまえばそれまでかもしれないけど、見ていて、すごく感じるものがあった場面だった。
福士加代子というランナーの真髄に触れた気がした。

あの敗戦にケチをつける人がどんだけいてもいいと思う。関係ないと思う。
世の中の人全員に認められる必要なんてない。
アスリートは、勝てばそのときは、誰もが賞賛する。
でも、スポーツの勝負の世界で、永遠に勝ち続けることなんてできない。
周りの競技者と戦い、記録と戦い、プレッシャーと戦い、お気楽な外野たちの好奇心の目と戦い、
負ければ衆目の目にさらされ、批判を浴び、屈辱にまみれるのだ。
それでもアスリートが戦うのは、自分自身の信念のためであり、
その信念を支えるもののひとつが、自分のために尽くしてくれるスタッフや、応援してくれる人たちの存在なんだろうと思う。

そういう信念をもって挑戦し続けられる人は、限られている。
ストイックな努力を続け、結果を出し、可能性を感じられる人だからこそ、みんながサポートし、応援してくれるのだ。
そしてそれに応えるために、挑戦は続き、さらに高いところをめざして上っていく人を、
私はうらやましいと思う。尊敬する。
そういうのが、「よく生きる」ってことだと思う。

今夜、先週DVDに録っていたイチローのインタビュー番組を見た。
イチローももちろん、一流のアスリート。
その言葉のすべてに、実績を積んできた人ならではの説得力がある。
インタビュアーの茂木健一郎が言った。

「オスカー・ワイルドの小説に、こういう言葉がある。
 『われわれ人間はみんな、ごみための中にいる。でも、その中の一握りの人が、星を見上げている。』 」

自分とは違う次元にいる人、星を見上げている人を、
ごみためにいる自分の目線まで落として、好き勝手なことをいうのは簡単だ。
簡単だし、楽だ。
でも私は、そうはなりたくないな。

イチローはその言葉を聞いて、「自分もそうありたい。」と言った。
続けて、「でも、僕にも見えませんよ。僕も暗闇の中にいるんです。でも、星を見たいと思う。」と言った。

私も星を見上げることを選ぶ人間でありたいし、
まあそれは大上段すぎるとしても、
せめて、見えなくても、星を見上げる人を、見上げてたいな。
だってそういう人が、「地上の星」だから。
・・・・て、NHKの公共料金も払ってないくせして、「プロジェクトX」で終わるのもなんですが。

追記・・・・結婚して以来、公共料金、ちゃんと払ってます!
by emit9024 | 2008-01-30 00:44


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